高校を卒業して就職し、結婚。旦那も私も、結婚したらすぐにでも子供が欲しいと思っていました。と同時に、妊娠はすぐにできるものだと思っていました。だけど、仕事に追われているうちに時は過ぎ、結婚して1年が経とうとしていました。
「なかなか妊娠できないな・・・」そう感じ始めていた頃、生理が遅れたのです。もちろん、1週間遅れた頃から「もしかして?」という気はしていたのですが、仕事が忙しく、なかなか調べる余裕がありませんでした。
そして生理が遅れて3週間。やっと妊娠検査薬を購入し、いざ検査!結果は、一瞬のうちに陽性の青い線。念願の妊娠が判明したのです。
妊娠が分かり、旦那と私は、泣いて喜びました。信じられなかったけど、とにかく嬉しかった。
「赤ちゃん!!私たちの赤ちゃんだよ!ここにいるんだよ!」
お腹にやってきた小さなわが子を、私たちは『みゅー』と呼ぶことにしました。
・・・・・
嬉しくて嬉しくて、検査薬を試した次の日には、職場でも言いまくりました。職場の上司、先輩、同僚、みんな喜んでくれました。
そして次の休みに早速病院へ行くことに。産婦人科のことは何も分からなかったので、姉が出産した、近くの総合病院を受診。医師の腕も確かだと聞いてもいたので、迷わず決めました。
診察が終わると、先生が、テレビでよく見る黒いエコー写真を1枚手渡してくれました。
「中に小さな丸があるでしょう。これが赤ちゃんの入っている袋ね。
赤ちゃんはまだ見えないみたいだから、また来週来てください」と。先生はそれだけ言いました。
私は初めてのエコー写真に感動していました。
けれど今思うと、生理が遅れてすでに3週間。単純に計算しても7〜8週目だったんです。
赤ちゃんが見えるのが普通っていう時期だったんですよね。そんなことには私はまったく気づきませんでした。まだ小さいんだから見えないのが普通なんだと思ってました。妊娠の知識に関して、まったくの無知だったんです。
エコー写真を大事に持ち帰り、またまた旦那と大騒ぎ。“袋”の写真を穴が開くように眺め、「かわいいね。この中にいるんだ!ちっちゃいね♪かわいね♪」と。まさに天にも昇る気持ちでした。
もちろん、両親をはじめ、友人知人、思いつく全ての人たちに、妊娠の報告をしました。
そして2回目の検診。
胎嚢は前回より若干大きくなっていたものの、このときもまた、胎嚢しか確認できなかったのです。先生はきっと、最悪の結果を予測していたんでしょう。でも私は、先生のそんな懸念にも気づかずにいました。
最高の気持ちのまま新年を迎えました。結婚して、初めてのお正月です。届く年賀状には「今年はパパ&ママだね!」「赤ちゃん楽しみにしてるね」の文字が踊ります。
そのとき私は“つわり”になっていました。なんとなく気分が悪く、食欲のない状態が続いていました。つらい反面、妊娠の実感がして嬉しかったものです。
仕事は、偶然にも妊娠判明の少し前に、退職願を出したばかりでした。つわりも辛く、会社を辞め、自宅でゆっくり過ごす日々でした。
そして迎えた3回目の検診。その日は義母が病院に付き合ってくれてました。
いつものように診察が終わり、診察室で先生と向き合ったとき、先生が発した言葉は「今日は誰かと来てるの?」でした。
「はい、義母と…」
そう答えると、看護師さんが義母を診察室まで呼んできたのです。なんなんだろう?と私は意味が分からずにいました。
義母が私の隣に座ると、先生は「赤ちゃんが育っていません」そう言いました。
???育ちが遅いっていうこと?何か問題があるの?
まだ私はそんなことを思っていました。
ですが、隣にいた義母が泣き出したのです。「…もうだめなんですか」と先生に涙声で聞いているんです。
それまでキョトンとしていた私も、その言葉でようやく事態が飲み込めました。その途端、とめどなく涙があふれてきました。
なぜ?
なぜ?
泣き続ける私と義母に、先生は冷静に手術の説明を始めました。子宮内の赤ちゃんを出してあげなくちゃいけないということ。放っておくと、強い痛みや大量出血となる恐れがあることなど…。そして、初期流産はそんなに珍しいことではないということ。母親のせいではないということ・・・。
いつの間にか話が進んでいました。手術の承諾書のようなものにサインをした覚えがあります。処置は1日でも早い方がいいということで、その日から2日後に入院し、手術を受けることになりました。
病院を出て、駐車場の車の中で、すぐに旦那に電話をしました。あふれだす涙を止めることができないまま、赤ちゃんが育っていない、もう死んでしまっているという事実を話しました。それからは、どうやってうちまで帰ったのか、覚えていません。
旦那は会社を早退し、すぐに帰ってきてくれました。そして二人で抱き合って、ひたすらひたすら泣き続けました。赤ちゃんを失った悲しみと、押し迫る手術への不安。こんなに辛い思いをしたことはなかったです。頭がどうにかなりそうでした。
赤ちゃんはちゃんとお腹(ここ)にいるのに、もう生きていない。
涙が止まる気配のないまま、入院の日はすぐにやってきました。午前中に入院して、手術は夕方というスケジュールです。その日は旦那と義母が、入院からずっと付き添ってくれました。
手術のため、朝から絶食。許されたのは水だけ。依然としてつわりが続く私は、手術の恐怖、不安とともに、空腹による吐き気とも闘わねばなりませんでした。
それから、夕方の手術に向け、色々な準備が始まりました。点滴だったり、剃毛だったり、坐薬だったり…。
格別だったのが、子宮口を開く処置です。私は何も知らされぬまま、内診台に乗りました。術前の検査か何かがあるのだろうと思っていました。
何が始まったのかと思った途端…痛い!!!!何これ!?
あまりの痛みに愕然…!耐えているうちにいつのまにか涙が出ました。
どうして、赤ちゃんとサヨナラするために、こんな痛い思いまでしなくちゃいけないの?サヨナラなんかしたくないのに…。
処置の後、ヨタヨタと病室へ戻り、陰部に違和感を感じながら、手術の順番がくるのを待ちます。ベッドに横たわったまま、もう起き上がる気力すらありませんでした。
順番がきたら、肩に筋肉注射を打たれました。これもまた痛かった。予備麻酔のような注射です。
手術着を着せられ、いざ生まれて初めての手術室へ。
ベッドに寝たまま、廊下を進んでいきます。
手術室の前まで旦那も義母も来てくれたような気もするけど、ほとんど記憶がありません。
手術室はドラマで見るような、物々しい雰囲気ではなく、広々として明るくて、意外に殺風景なところでした。リラクゼーションのような音楽も流れてる。
手術の前には先生が来て、「大丈夫だよ、リラックスしてね」と声をかけてくれました。そのおかげもあるのか、手術を目の前にした私は、意外にも落ち着いてました。
麻酔を点滴で入れます。
「少し腕が痛くなると思います。1、2、3・・・と数を数えててくださいね」と言われ、いざ麻酔注入。
1、2…あ、腕がズキズキするなぁ……
と、気づいたら病室で寝てました。頭がぼーっとして眠い。旦那の顔が見えた。うわぁ…もう終わったんだ…。起きて睡魔の中で、わずかながら、出された食事を食べました。(たぶん)
それからの記憶はないです。麻酔の余韻と、流産診断から続く睡眠不足、そして無事に手術が終わった安堵からか、その日は泥のように眠りました。
そして翌朝。心にぽっかりと穴が開いたのを感じながら、退院しました。
流産後の私は、今までにないくらい落ち込みました。仕事も退職していたことが、よけいに私を悲しみの世界に閉じこめました。毎日一人で家にいて、テレビを見ながらさっきまで笑ってたかと思うと、ふいに赤ちゃんのことを思い出して泣いていました。
手術後、私は流産についていろいろ調べました。10人に1人の割合でそれは起こっていること。初期流産のほとんどは、胎児の染色体異常によるもので、止められるものではないということ。
それでも私は、やっぱり自分を責めました。他に悲しみのやり場がなかったんです。
妊娠発覚後も、ハードな仕事をしていたからじゃないかと…、なぜ自分は母親なのに、我が子を守ってあげられなかったのかと…。きっと怖かったよね。ごめんね。ごめんね。お母さんを許してね。
そう呟くばかりでした。
そんなとき、旦那がどこかで見つけたと、一つの詩を教えてくれました。
『赤ちゃんは、自分が生まれることはできないと分かっていても、自分の寿命を知っていてもママのおなかに来るんだって。ほんのちょっとの間でも、ママの子供になりたくて、おなかに来るんだって。だからみゅーは、お前の中にいて幸せだったんだよ。』 と…。
涙が止まりませんでした。
心の中が洗い流されるかのように、今までとは違う、温かい涙でした。
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